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日本のパソコン史、というのはおそらく1970年代後半に登場したNECのマイコンキット『TK-80』から始まるのだろう。機能は決して高くはなかったが、このキットでプログラミングを覚えた少年たちが後に8ビットパソコン黄金期を支えることになる。その後、1979年にNECのPC-8001、シャープのMZ-80が登場し、『パソコンという趣味』が確立されていった。
この時代はまだ、作り手もアマチュアであり、プログラムリストを雑誌に投稿し、そしてプレイヤーたちはそれを打ち込んでゲームをプレイするというスタイルが主体だった。その後、こういったソフトのいくつかがパッケージ化されてショップ店頭に置かれるようになり※、徐々にではあるがパソコンゲームの市場が出来上がりつつあった。
そうした流れの中で1982年に登場したのが、マイクロキャビンの『ミステリーハウス』である。「鍵と金庫のダイヤル番号の書いてあるメモを探し、屋敷のどこかにある金庫から財宝を盗む」というシンプルなゲームではあったが、本格的なゲームがまだほとんどなかったこともあって大ヒットし、翌年には続編『ミステリーハウス2 名探偵登場』まで発表されている。
1982年10月の富士通FM-7に始まる、低価格(定価12万程度)・カラー(640x200ドット8色)・シンセ機能(モノラルPSG※3チャンネル)のパソコン発売ラッシュ※は一大パソコンブームを作り上げた。そして、急速に増えたユーザーの需要を満たすために数多くのゲームが登場した。特に、アドベンチャーゲームは当時標準的だったBASIC言語で容易に開発することができたので、この時期数多くのアドベンチャーゲームが登場している。
T&Eソフトの『惑星メフィウス』はゴルフゲーム『3Dゴルフシミュレーション※』と共に同社の看板ソフトとなり、またスペースSF路線※は以降同社のお家芸となっていく。またかなり難易度は高く後半の『ID探し※』に苦しめられたプレイヤーも多かった。
また、ハドソンソフトの『デゼニランド』はおそらく業界で初めて「タイルペイント※」を採用したゲームだろう。中間色を多用したグラフィックは当時としては壮観だった。また、東京ディズニーランドをパロったシナリオはギャグ満載で、「サラダの国のトマト姫」「デゼニワールド」と続くハドソンのナンセンスコメディ路線を決定づけた。
元祖『和製アドベンチャーメーカー』マイクロキャビンは『ドリームランド』を登場させた。ファンタジックな夢の世界からの脱出、という内容で後年名作『はーりぃふぉっくす』を生んだファンタジー路線の下地はこの頃に出来上がったと言えるだろう。
アダルトアドベンチャーゲームは既にこの時点で登場している。ジャスト※の『天使たちの午後』はその代表作であるが、女性人工知能『エミー』も心情的に「アダルト」に分類したい(苦笑)。
そして、エニックス堀井雄二の「ポートピア連続殺人事件」を忘れてはならない。当時エニックスは『ゲームホビープログラムコンテスト』を開いており、「ラブマッチテニス」でこのコンテストに受賞したのが堀井雄二だった。なお、後に「ドラゴンクエスト」でコンビを組むことになる中村光一※も「ドアドア※」でコンテストに入賞している。その堀井雄二の第2作目が「ポートピア連続殺人事件」である。本格的推理アドベンチャーであった当作品は当時のプレイヤーたちに一様に驚きを与え、その後堀井雄二はスターゲームデザイナーの道を歩んでいくのである。
もう一つ忘れてならないのがスタークラフト※である。同社はアメリカで大ヒットしたSierra On-Line社のApple][用アドベンチャーの数々を精力的に移植したメーカーである。当時は1ドル240円の円安時代であり、Apple][は日本人には高価なおもちゃだった。いくら雑誌で話題になっていても決して味わえなかった「アメリカの香り」を提供した同社の功績は極めて高い。
『ミステリーハウス』登場以降プレイヤーたちの「もっときれいなグラフィックを!」という欲求は日に日に高まっていった。その欲求に応えたのがエニックスだった。コンテスト入賞作品の『ザース』そして同じ作者による『地球戦士ライーザ』そして少年ジャンプの人気連載漫画だった『ウイングマン』、『ジーザス』『ミスティブルー』などのアニメ調のグラフィックのゲームを次々に発売していった。
また、描画時間の高速化も重要な要求項目だった。当時、グラフィックの描画はまだシンプルなものだった。すなわち、まず線を引っ張って多角形を書き、その後でペイント機能で塗りつぶす、要するにペイントツールで人間が絵を描く過程をパソコンがやっているようなものである。当然描画時間は10数秒から数10秒もの長さにおよび、そして画像が複雑化するにしたがってますます描画時間が長くなる傾向にあった。
もちろんソフトハウス側もこの流れを黙ってみていたわけではない。アルゴリズムの改善により少しでも早く線を引いたり塗りつぶしたりといった努力は続けられていた。しかし、画像の高速化・複雑化への要求はますます高まっていった。そして、ようやくフロッピーディスクが普及しはじめ※、フロッピーベースのゲームが商売になりつつあり、「より高速な描画」が出現する下地が整ったと言える。
そして、1984年には今までの手法とは一線を画す描画方法、すなわち瞬間描画を用いたアドベンチャーゲームが登場する。その嚆矢となったのは、筆者の記憶に間違いがなければシステムソフトの「ミコとアケミのジャングルアドベンチャー」であり、また日本ファルコムの「デーモンズリング」もその後すぐに発売されている。
この動きのさらなる延長としてアニメーションアドベンチャーが登場する。当時、アニメのキャラクター(スタジオぴえろのアニメが多かったような....)の画像を目パチ口パク※でアニメさせることがアマチュアプログラマーの間で流行っており、アニメーションアドベンチャーが登場するのは時間の問題だった。
そして登場するのがスクウェアの「ウィル」だった。スクウェアのデビュー2作目※となる同ゲームは、「ヒロイン アイシャの目覚め」のシーンを始めとするアニメーション技術と当時最高水準のグラフィックで多数のプレイヤーを虜にした。「技術のスクウェア」の評価※ははこのゲームによって確立したといっていい。以降スクウェアは「アルファ※」「ブラスティー(これはシミュレーションゲームだが)」そしてファミコンディスク版の「クレオパトラの魔宝」とアニメーションを全面に打ち出したゲームを作り続ける※のである。
80年代半ばまでのアドベンチャーゲームはグラフィックの向上というファクターはあったものの、基本的にはキーボードでコマンドを入力するという方式であり、ゲームを解く=「単語探し」だった。
これに転機をもたらしたのは、堀井雄二である。彼のアドベンチャー第2作「オホーツクに消ゆ」(アスキー)は初のコマンド選択式アドベンチャーであり※、プレイヤーたちはようやく「単語探し」の苦痛から開放されたのである。そして、他のメーカーもこの流れに追従し、「コマンド入力式」は姿を消すことになる。
しかし「コマンド選択式」は諸刃の剣でもあった。すなわち、「単語探し」という時間稼ぎが使えなくなってしまったので、プレイ時間が激減してしまった。つまり、「高い金出して買ったのにすぐ終わっちゃった」という現象が多発したのである。プレイヤーを満足させるためにはシナリオの分量を増やさねばならず、次第にアドベンチャーの開発は「割に合わないビジネス」になっていった。これはあくまでも筆者の私見だが、おそらく堀井雄二は『オホーツク』開発時にそのことに気付いていたのではないだろうか。そして次回作であり、氏のアドベンチャー最終作※となる『軽井沢誘拐案内』(エニックス)では後半部をまるまる『ウルティマ※』風のRPGにしている。そして、以降氏は「経験値/金稼ぎという時間稼ぎのある」RPGの制作に専心するのである。
また、追従した他のメーカーも同様だった。堀井雄二以外にも日本ファルコム「イース」の橋本昌哉※、そして「ファイナルファンタジー」のスクウェアなど、そうそうたるメンバーがアドベンチャーゲームのデザイン出身であることが何よりの証拠だろう。
また、キャラクターゲームに移行するソフトハウスもあった。マイクロキャビンの『めぞん一刻』などが代表だろう。しかし、原作のイメージが強過ぎて、原作ファン以外にはあまり評価されなかった感はある。特にポニカ(現・ポニーキャニオン)は親会社が音楽・影像産業ということもあってか『バック・トゥ・ザ・フューチャー※』などの映画を題材にしたゲームを出していたがいまいち受けは良くなかったようだ。
そういった流れの中で、80年代後半のPCアドベンチャーの流れはアダルト寄りに傾いていった。アダルトの場合、基本的に『ハダカを見せること』が目的であり、多少シナリオがいい加減でもプレイヤーは満足したからである。さらに絵を描く労力を除けば、基本的に開発が容易であり、その割に売れるので収益を出しやすい、という利点もあった。1988年頃のPC-8801mk2SR用のゲームの80%以上がアダルトだったほどである。
そんな逆風の中、(アダルト以外の)アドベンチャーゲームを作り続けていたメーカーは、そのシナリオ構成能力を強化させていった(裏を返せば、生半可なシナリオではユーザーにそっぽを向かれる時代だったのだ)。『J.B.ハロルドシリーズ』のリバーヒルソフト、『サイオブレード』のT&Eソフト、『スナッチャー※』の小島秀夫※率いるコナミなどはその代表だろう。
また、「アダルトを作れない」ファミコンにも傑作と言われるアドベンチャーが登場した。任天堂『ファミコン探偵倶楽部』、データイースト『探偵神宮寺三郎』などはその代表だろう。『神宮寺〜』に至ってはプラットホームをプレイステーションに変え、今なお現役である。
80年代後半から始まった16bit化の流れはゲーム、それも特に静止画を多用するアドベンチャーゲームに大きな影響を与えた。PC-8801mk2SRでは640x200,8色※だったのがPC-9801VM/UVでは640x400,4096色中16色、シャープのX68000に至っては512x512,65536色※を表示できた。その結果、アドベンチャーゲームの画質は著しく向上した。ガイナックスの『サイレントメビウス』『不思議な海のナディア』、シュールドウェーブの『ノスタルジア1907』、リバーヒルソフトの『D.C. Connection』などは高解像度・多色表示を効果的に使った好例だろう。
また、88年に登場したPCエンジンCD-ROM2(ロムロム)や89年に登場した富士通FM-TOWNSのようなCD-ROM内蔵機種の登場はアドベンチャーゲームにフル動画と音声をもたらした。初めてしゃべったアドベンチャーゲームはおそらくPCエンジン用の『NO・RI・KO※』(NEC HE)だろう。もっともこれはアイドルのキャラクターを全面に押し出したゲームであり、「アドベンチャーと言えるか」どうかはかなり微妙なところだろう。。「アドベンチャーらしい」ゲームとなると、ハッキリとはいえないが、データウエストの『D-Again※』当たりだろうか。また、ガイナックスも『不思議の海のナディア』をフル音声対応※としている。
また、『D-Again』は動画シーンも一部含んでいた。動画自体は『サイオブレード』など、8ビット時代から既に実現されていたが、音声を同期させたものとしてはこれが最初だろう。なお、データウエストは『AYA※』でパソコンゲーム史上初のフル動画(音声付き)を実現している。
一方こうした環境の高度化に逆行する動きも見られた。スーパーファミコン版の『弟切草』(チュンソフト)を始めとするサウンドノベルシリーズ(つまり、テキストアドベンチャーだ)、データウエストの『Misty※』、またシステムサコムの※ノベルウェアなどもそれに相当するだろう。
ただ、こういったトピックはあっても全体的にタイトル数は減少気味であり、(シナリオに多大のエネルギーを割かねばならない)アドベンチャーゲームは冬の時代を迎えていたといっていいだろう※。ただ、その分残ったメーカーの力量は高かった※といえる。
1990年に登場したMacintosh Classic。この20万円を切ったMacは日本で大ヒットし(確かMac全体で12万台程度。当時「Macは倍々ゲームで出荷台数を増やしている」と言われていた)、Mac用のソフトの本数もじりじりと増えつつあった。また、この年Reactor社の"Spaceship Warlock※"が登場し、「アーティスティックなソフトならMacintosh」といわれるようになっていた。
そんな流れの中登場したのがシナジー幾何学※の"Alice"だった。後に「国産マルチメディアタイトルの第一人者」と呼ばれるようになる庄野晴彦とイラストレーター金子國義による作品である。基本的にはCyanの"the Manhole"の日本版といった感も無きにしも非ずだったが、金子國義のイラストレーションのセンスの良さは秀逸だったし、そしてこのようなタイトルが出現したこと自体が「新しい時代」を感じさせたのである。
その後庄野晴彦は"L-ZONE"、"GADGET"と次々とヒット作を繰り出し、一躍時代の寵児となっていく。さらにWindows3.1の登場により市場が広がり、またデジタルローグをはじめとする他社も後を追ったことで、一大マルチメディアブームが日本に訪れるのである※。
そして1994年の"Myst"の爆発的なヒット、そして翌年のWindows95の発売による市場規模の増大※によって、日本のアドベンチャーゲームはこういった「インタラクティブシネマ」が中心になり、現在に至るのである。
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